仲良きことにこがれる理由

前編

BLUE CITY サイトには「幸せに食す」「幸せに働く」「幸せに集う」「幸せに学ぶ」の4セクションがありますが、「で、結局何がやりたいの?」と聞かれることがあります。

​ぼくとしては、食卓・職場・遊び場・学び場という人の集まる場がそれぞれ幸せにみちてほしい。そのためには、そこに生まれる人間関係が良好であってほしい。つまり仲良きことを理想と考えているわけですが、理想を実現するには各現場で効力のある方法論が違うため、おのずとセクションを分けました。

 

といった設計思想はもちろん記さなければ伝わらず、その発信はあきることなく続ける必要があると思っています。

そして、そもそも「何故、仲良きことを理想と捉えているのか?」 最も中心にある Why にこたえることも、大切だと感じています。

 

人間関係の大もとになるイメージは多くの場合家族であり、ぼくもまた例外ではありません。開示する自分や家族の歴史が、読む方にとって理想へ向かう後押しや内にかかえる痛みの癒しになれば、望外の喜びです。

前編

Vol.1:父と母/違いに苦しんだ夫婦

Vol.2:母方の祖父母/​原イメージ

Vol.3:母/​文化の人

Vol.4:父/​覇気の人

Vol.5:弟と妹/​組み合わせ術

後編

Vol.6:おじさんとおばさん/​土壌

​Vol.7:いとこ/遠くて近しい者

​Vol.8:先妻/気づきへの感謝

Vol.9:息子たち/過去から未来へ

Vol.10:奥さん/2つの奇跡

Vol.1:父と母/違いに苦しんだ夫婦

1枚の古い写真。

写っているのは、父と母、ぼくと弟です。場所は父の実家の庭先だと思います。

 

父は旧姓を渡邊治土(ハルト)と言いました。

そう。ぼくの苗字であるスギオカは母方の姓であり、父は婚姻によって養子に入った人でした。

今では珍しいことではありませんし、夫婦別姓なども議論されていますが、昭和30年代にあっては異例のことであり、父は長い間負い目のうような感覚を持ち続けます。

縁組に際して、父の母が「うちにはもらわれてええ子は一人もおらん」と言ったことも影響したのだと思います。古い慣習が強く人の心をしばっている時代でした。

 

ともかく、父の心は故郷にとどまり続けました。

母の妹たちは「お兄さんができる!」と喜びましたが、結婚式のために新調したモーニングには「渡邊」という旧姓が刺繍されており、「お兄さんは杉岡の人になる気はないんや……」と、とても悲しくなったそうです。

 

そして、まだまだ男尊女卑の激しい時代でした。さらに言えば、今では完全にドメスティック・バイオレンスとみなされる行為も、割と普通に行われていました。

養子の負い目に屈したくないとの気持ちが、父の亭主関白に拍車をかけていた節もあります。

帰宅して母が迎えに出てこないことに腹をたてた父は、風邪をひいて寝込んでいる母を二階から蹴落としたそうです。お腹の中には、すでにぼくがいました。

おいおい……、ですよ。

 

「子供は親を選んで生まれてくる」という言葉があります。眉をひそめる人もいるでしょうが、人は自分の使命をもってこの世に生まれてくるとの考えです。

それを受けて言えば、ぼくは名前にこだわる旧システムのねじれをかかえ、価値観の違いに苦しむ夫婦の子として生まれることを、自分で選んだと言えるのかも知れません。

違いを違いとして認めつつ、仲良く過ごすことはできないものか? と。

理想を求める種でした。

実際、父と母は考え方や大切にしたいものが大きく異なり、言い争いの多い夫婦でした。

Vol.2:母方の祖父母/原イメージ

母は1940年に広島県呉市で生まれました。四人姉妹の長女でした。

実家はもともと米屋を営んでいましたが、祖父の代でやめてしまい、祖父は市役所勤めをしていました。小林旭の歌を大音響で聞くのが好きで、そうかと思うと何も言わずにフラッと旅に出る、ちょっと変わった人でした。ぼくのマニアックな嗜好は、たぶんこの祖父からの血だと思っています。

米屋をやめてしまったのも、要するに商いを続けるのが無理だったからですが、家業を継ぐはずだった長男は兵隊に取られ、三男を原爆で亡くしてしまったという、家族の悲しい歴史も背後にありました。

 

一方、祖父の天真爛漫さを補うように、祖母はとてもどっしりとして、威厳のある人でした。

もともとは広島市内の出身で、はるばる呉に嫁いで来た人。『この世界の片隅に』そのままですね。

嫁入り道具を船に乗せて来たそうですが、呉は『仁義なき戦い』の舞台となったように、ヤクザ者の多い土地です。祝言をあげている間に、嫁入り道具は全部盗まれてしまったそうで、その時の落胆を想像すると胸が痛みます。

 

ともあれ、祖母は強い人でした。

祖母の両親はハワイに出稼ぎに行き、お金をためて帰ってきた夫婦だと聞きました。ほとんどの男女がハワイで喧嘩別れをしていたらしく、きちんとお金をためて帰って来た夫婦はとても珍しかったとのこと。

そうした両親の事業意欲をみならったからでしょう。祖父がやめてしまった米屋に代わって、祖母は借家業を始めました。

しかし、前述したように、呉はちょっと怖い土地がらです。家賃の値上げを伝えた際、ヤクザ者を先頭に借家の住人が大挙して家に怒鳴りこんできたことがありました。

その時の様子は法事のたびに出る話で、裏口から逃げ出した祖父に対し、祖母はたった一人でヤクザを始めとする大勢の店子とわたり合ったそうです。

結果として、家賃の値上げは取り下げたものの、大家が集金に行くのではなく、店子が家賃を持ってくる約束を祖母は取りつけました。その落としどころについて、祖母自身が誇らしげに語るのを聞いたことがあります。とても負けず嫌いな人でした。

 

そんな感じでしたから、祖父母の間もけして穏やかではなく、家では終始口論が絶えませんでした。

「子は親の心を実演する名優」という言葉もあるように、母の元イメージには祖父母の姿があったのかもしれません。

 

記憶によく残っている喧嘩の原因は、あるはずのモノがあるべき場所にないことでした。

たとえば、金槌とか。

「どこ、置いたんね?」

「知らんよぉ」

「知らんわけないじゃろぉ」と。

 

モノがあるべき場所にあると平和です。

ぼくが無意識的にモノを片付けてしまうのは、しかるべき場所にそれがないと、なんだか嫌なことが起きる予感がするからかも知れません。

Vol.3:母/文化の人

比較的家が裕福だったこともあり、四人姉妹の長女である母は大切に育てられたようです。

京都の大学に行かせてもらい、彼の地をとても愛していました。「京都のものは他とは違う」が口癖だったほど。

 

植物の名前をたくさん知っている、勉強熱心な人でもありました。習いごとでは書道と茶道が大好きで、特に書道に関しては晩年古文書の研究会に入ったほど。海外旅行も中国にしか行きませんでした。

モリサワというフォントの会社が毎年書をテーマにしたすばらしいカレンダーをつくっているのですが、それを年末に持ち帰るのがここ10年ほどのぼくの大きな楽しみでした。母が心から喜んでくれたからです。

たぶん、それはぼくにできたほとんど唯一の親孝行だったかもしれません。

 

一方、父が好きだったのは囲碁と麻雀とゴルフでした。どれも銀行員としてのつきあいがあったからですが、それにしても母とは全く違う趣きです。

ただし、母は父が日曜日にゴルフに出かけることを「仕事」と言っていました。幼い子供に対して父を悪く言わない、そのあたりはよくできた人だったと思います。

 

お茶については父もつきあうことがあったようです。そこは比較的穏やかな場だったようですが、中国旅行に際しては喧嘩ばかりしていたと聞きます。ともかく、ささいなことで言い争う夫婦でした。

それは、母に祖母の負けん気が引き継がれたからだと思います。が、そもそも出世欲の強い父を探し出し、婿養子にむかえ入れたのは祖母でした。祖父が頼りない人だったのと名前を継ぐことになるのが母だったのとで「強い男性を」と考えたわけです。

 

しかし、結果としてお互いゆずらない夫婦ができあがりました。ぼくは父も母もそれぞれに好きですし、尊敬もしていますが、その関係性には正直なところ辟易としていました。

とにかく喧嘩が多い。モノを投げたりはありませんでしたが、言い争いは日常茶飯事でした。

仲睦まじさがぼくの理想になった理由は両親にそうあってほしかったからだと思います。

 

それでも離婚にいたらなかったのは、母に意地があったからでした。父は外面がいいので、「離婚をしたら、わたしが悪いと思われる」と。それを聞いた時には、なんだか切なくなったものです。

 

そんな母は今年の1月に亡くなりました。

最後の5日間ほどを一緒に過ごせましたが、その際、手をとって

「ええ子に育ってくれて、幸せじゃったよ」

と言ってもらえたことは、ぼくの人生の勲章だと思っています。

Vol.4:父/覇気の人

母が文化や伝統を大切にしたい守りの人だったとすれば、父は新しい力を求めて戦う攻めの人でした。出世欲が旺盛で、亭主関白。絵にかいたような昭和の男でした。

ただし、私利私欲にまみれていたわけではなく、父をつき動かしていたのは兄弟への深い感謝の念だったようです。

 

父は男6人女2人の8人兄弟の末っ子として生まれました。家は広島の山奥で、小学校まで片道4km、中学校までは片道6km。よくも、まぁ、それだけの距離を兄弟全員が通ったものだと思います。家には自転車が1台だけあったそうで、それは早い者勝ちで使えたと言います。

食べ物に関しても早い者勝ちでした。父はいちじくが嫌いなのですが、その理由は小さい時においしくないいちじくをたくさん食べたからだそうです。熟れるまで待っていたら他の兄弟に食べられてしまうので、できるだけ早く口にしなければならず、勢い熟していないうちに食べる。当然、おいしくないわけです。

 

とはいえ、兄弟の仲はとても良く、父は兄弟みんなに支えらえて大学を出ました。高校時代は働き始めた次男の家に住まわせてもらい、大学時代は松山に嫁いだ長女の世話になりました。学費自体も三男が炭焼きをして工面してくれたそうです。

母とは違った形で、父もまた大切にされた人だったと思います。

 

父はそうしたご恩に報い、出世することで恩返しがしたいと考えていたようです。職場においても、家庭においても終始気を抜くことなく、常に真剣勝負をしているような人でした。

会社の催しで海水浴に行った際、若い男性社員さんに

「お父さん、家でも怖い?」

と聞かれ、別の女性社員さんが制する一幕がありました。

「だめよ。子供さんにそんなこと聞いちゃ」と。

 

実際、家でも父は常にこわもてで、泣くことを許さない人でした。何かあって泣きそうになると、大きな声で「泣くな!」と怒鳴られ、それがあまりにも怖くて泣いてしまうという。意味不明な子育てだったと思います。

遊んでもらったこともほとんどありませんでした。日曜日の夜、大河ドラマが終わったタイミングで、将棋をしてもらえるかどうかが唯一の機会。しかも、正座をして「一手ご指南いただけますか」と頭を下げなければなりませんでした。気が向けば相手をしてもらえましたが、頻度としては2〜3週間に一回くらいだったでしょうか。

それでも遊んでもらえたら嬉しかったですね、子供ですから。

 

そんな父も、自分の実家にいる時には穏やかでした。

四面楚歌的(と本人が感じる)日常から離れ、末っ子という立場に戻れたからなのでしょう。兄弟と一緒にいる時の父には、普段は見せない、はしゃいだ感じがありました。

田舎に集まった兄弟は、お昼からのんびりとお酒を飲み、碁をうって笑う。和やかな会話と仲の良い空気が家のすみずみにまでいきわたる、とても素敵な時間でした。

両親の言い争いが仲が良いことへの憧れをつくったとすれば、成就のイメージはまさにそれです。少し大げさに言えば、それこそ天国のような感じだったわけで、そうした場は感謝と愛和の気持ちによってつくられると思います。

Vol.5:弟と妹/組み合わせ術

ぼくには喧嘩別れをしたままの弟がいます。

もはやこの世にいないので、謝りたくても謝れず、仲直りすることもできません。

かれこれ50年前、ぼくが5歳で弟が3歳の時のことでした。外で遊んでいて何かが原因で喧嘩をしてしまい、別々に遊び始めたところ、夕方になっても弟は帰ってきません。母は血相を変えてあちこち探しまわりましたが、弟は用水路に落ちて幼い命を落としてしまっていたのです。

 

当時、家族でまだ誰も亡くなっていなかったので、5歳だったぼくには、何が起こったのかよくわかりませんでした。死そのものがピンと来なかったわけですが、ともかくたくさんの人が泣いていたのを覚えています。

そして、以来、夕方には母と一緒にお経を唱えることが日課となり、その習慣は小学校を卒業するくらいまで続きました。もちろん子供にとっては楽しい時間であるはずもなく、修行のような日々でした。

ある時、その頃何を考えていたのか母に問うたところ、「何をしていいのかわからず、とにかくそうせずにはいられなかった」という答えが返ってきました。子供の死とは、つくづく重いものだと思います。

 

ぼくはと言えば、喧嘩をしてしまった罪悪感こそ背負わなかったものの、弟がいなくなった意味がわからない自分は責めました。つまり、「死とは何か? 生きるとは何か?」を考える子供になっていったのです。

大江健三郎さんの『日常生活の冒険』という小説で「死者を死せりと思うなかれ 生者あらん限り 死者は生きん」というゴッホの詩を知り、強いシンパシーを覚えました。

弟のことを忘れてはいけない、という思いにかられ続けていたのです。それが、芸術方面に進むきっかけだったと言えるかもしれません。母にならって言えば「そうせずにはいられなかった」わけです。

 

弟の下には二人の妹がいました。ただし、年が離れていたこともあり、性別が違うこともあって、一緒に遊ぶことはほとんどありませんでした。総じて、面倒見の悪い兄です。

とはいえ、今では甥や姪をまじえてカードゲームをすることもあり、穏やかな関係性がつくれています。

ちなみに、ぼくは外見は父親似ですが、中身は母親に似ています。上の妹は外見も中身も母にそっくり。下の妹はどちらも父親似な感じです。

性格や趣味もその通りで、美術館などに行くと、父と下の妹は最速で外に出ますが、母と上の妹はゆっくりと作品を鑑賞するタイプでした。兄弟で組み合わせ術(アルス・コンビナトーリア)が見られて、おもしろいですね。

ぼくが組み合わせ術に惹かれた理由も、案外そのあたりにあるのかもしれません。弟が生きていれば、きっと外見が母に似て、性格が父に似ただろうと思います。

 

ところで、この記事を書き始めて一つ良かったことがあります。

ふと、今年初めに亡くなった母はようやく弟に会えたのだと、気づいたのです。50年ぶりの再会ですね。

ぼくは100歳まで生きるつもりなので、これからの50年は母と弟が一緒にいて、ぼくが二人と離れる形です。それはなんだか、とてもフェアなイメージに思えました。

仲直りとは違いますが、これまでになかった気持ちの晴れ方でした。

 
 
 
 
 

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