なぜ、『自分を変えることは難しい』のか?

この投稿は、2019年8月13日

アメブロに書いた記事を再編集したものです。

年老いた父と伯父が、

最後かも知れない対面をしたのを見て

思わず、生と死について考えました。


ちなみに、伯父は先月(2022年3月)他界。

本当に、これが最後の握手でした。





わたしたちは、

死の感覚を忘れてしまうことが

少なくありません。

特に、自分の家族ができると

『死ぬわけにはいかない』

『この生活がずっと続いてほしい』

と思うあまり、死の観念は遠ざかります。

 

考えないようにする、というのかな。

現実的な可能性は何も変わらないのに、

自分の中にある感覚として

生きていることが『当たり前』

なっていきます。

 

すると、

日常的なくり返しへのフォーカスが増し、

感謝の念も薄れていきがちです。

 

 

もちろん例外はあります。

くり返すこと自体に感謝できる

深い聖性や人徳を身につけられれば

何も言うことはありません。

 

しかし、そうした悟りの境地には

なかなかたどり着けないですよね。

 

 

多くの人にできることは

死を意識して、

生をきちんと燃焼させることです。

『終わり』の感覚とも言い換えられます。

 

 

しかし、実はそれって

極めてキリスト教的な感覚なんです。

キリスト教は教祖キリストの生誕を

特別なこととみなし、

かつ『最後の審判』という世界の終わりを

教義の中心に据えました。

 

結果として、時間の緊張感を非常に高く持つ

宗教になっていったのです。

 

 

一方、

他の宗教は時間に対してもっと大らかでした。

くり返しを善しとし、

時間の一回性はむしろ忌み嫌われました。

 

 

わたしたちはキリスト教をベースにした

近代主義の時代に生きているので

変化を当たり前と考えていますが、

つい、150年ほど前まで

日本人のほとんどはくり返しを好んでいたのです。

わたしたちは

明治維新でいきなり変わったゲームのルールに

本当はなじめきれていないのかもしれません。

 

 

手塚治虫さんの『火の鳥/太陽編』

日本古来の神道と外来宗教である仏教との

戦いを描いたマンガです。

 

実は、同じような戦いがここ150年ほど

仏教とキリスト教の間で起きているのですが、

そのことを指摘する人はほとんどいません。

 

 

変化をさけ、無事を喜ぶ仏教と

変化を好み、挑戦に価値をおくキリスト教。

どちらにも善いところがあり、

悩ましいところがあるのですが、

それらを両方とも引き受ける矛盾は

なかなかに重いものがあります。

ともあれ、問いが立てられれば

おのずと答えは出てきます。

問題は、

問いが思い浮かばない状態なんですよね。

すべての宗教は

『幸せに生きる』ための術なのですから

その思いを大切にしていきたいものです。

未来は自分でつくれます!